*- 大阪レトロ建築探訪レポ -*

平成18年 10月17日(火曜日)

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< その3 >

 6.大阪ガスビルディング
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 昭和8年(1933)これも安井武雄の設計により建設された建物です。

 見た感じ、とても新しく感じられたのですが・・・って、そのはずです。2002年にリニューアルされていました。しかし、このビルの角の部分のカーブの雰囲気はそのままに残されています。当時としては、とても斬新なデザインだったでしょうね。
 ガスビルの御堂筋を挟んだ向かいの通りでは、<英国文化研究会ガーデニングアート展>が開催されていて、素敵な草花のオブジェが置かれていました。小さな箱庭のようなコンテナ。家にひとつ欲しいぞ〜と叫んでしまいました。(笑)
 
 <御堂筋>・・・明治22年鉄道の開通によって、大阪駅を玄関とした南北軸の道路の必要が叫ばれ、大正15年巾44m、長さ4050mという、当時としては類をみない大規模な街路、御堂筋の工事に着手し、昭和12年3375万円の巨費を投じて完成しました。

 その後今日まで、道路の使われ方や周辺の様子は時代の移り変わりにともなって、幾多の変革をくりかえしながらも、道路の構造は完成時と変わることなく、関西の経済、文化を支え、また、都心のオアシスともなっている大阪を象徴するメインストーリートです。
 7.大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園
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 これが市立の幼稚園!?と、驚きました。私立ではなく、大阪市立だったんですよ。

 明治34年(1901)北船場の豪商たちからの寄付で出来た現存する最古の幼稚園舎です。

 当時、キリスト教の伝道所と間違われないように、和風建築にしたと伝わっています。

 大阪市指定有形文化財となっています。
 その幼稚園の門には<銅座の跡>の碑がありました。

 江戸時代、銅を管理していたのが<銅座>で、当時日本の重要な輸出品として銅山から買い上げ、当時の大坂の銅吹所で精錬させ、海路で長崎へ輸送していました。

 また、銅の密売を防ぐための規定がつくられ、破片に至るまで厳しく銅座が管理したそうです。

 8.緒方洪庵旧宅及び塾
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 この建物は、蘭学者、緒方洪庵が、弘化2年(1845)に住宅として買い受けて、瓦町から移り住み、文久2年(1862)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの17年間にわたって私塾(適塾と呼ばれた)を開いたところです。

 洪庵は、ここで諸国から集まった門人たちに蘭学を教え、幕府から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人材を育てた。

 敷地は、間口約12メートル、奥行き約39メートルあり、建物はこの間口いっぱいに建てられ、前方の教室部と後方の居室部からなり、南庭に土蔵と納屋がある。

 教室部は、寛政4年(1792)の北浜大火後まもなくの建築とみられ、もとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に背後を切り縮め、おもて造りの店を改めて教室とし、後方に居室部を新しく建て直した。

 洪庵が出府してのち、再三の改造があり、大正4年(1915)には前面道路の拡幅によって、正面を奥行き幅約1.2メートル切り取られたが、昭和51年(1976)から行った根本修理で、正面を除いて、洪庵居住当時の姿に復元した。

 この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世における大阪北浜の町家建築の姿を示す貴重な遺例です。
・・・と、文化庁の看板がありました。

 隣の敷地は、休息所になっていました。疲れた足を休めようかと笑いネコさんと立ち寄りましたが、先客さんが大きな声で携帯電話中だったために、そそくさと出てきちゃいましたとさ。(笑)

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