〜 両槻会第六回定例会 〜
2008年1月14日

* 西飛鳥古墳めぐりと男綱勧請綱掛神事 *
(その5)

都塚古墳のすぐ側に、こんな看板が・・・・「くつな石」の由来。

簡単に言うと「石屋が巨石を切ろうと一打すると、石の割れ目から赤い血が流れ出し、中から傷ついた蛇が出てきた。その石屋はその夜から熱と腹痛に襲われて死んでしまった。」

神の宿る石として祀ったのが「くつな石」なのだとか。<くつな>とは、蛇の事です。ここから1キロ少し山を登った場所にあるそうです。
飛鳥稲淵宮殿跡を横目に(オイ!)坂道を登ってゆく・・・今日のPの目的地です。(爆)
ここが本日の昼食場所<祝戸荘>さんです。国営飛鳥歴史公園内に唯一の宿泊施設です。リニューアルされて、とても綺麗になっています。

「お世話になります〜♪」と、中へ・・・。
本日の昼食です。左から、鶏のから揚げ、焼き魚、煮物。手前に香の物。これにお味噌汁、古代米のご飯。以上で¥1.000円です。
古代米のご飯は、一番の人気で、追加をお願いいたしました。あ、Pじゃないですよ〜。(笑)

食後は研修室をお借りして、ミーティング。

初めてのご参加の方もいらっしゃいますので、親睦の意味でも大切なひとときです。堅苦しい挨拶ではなく、いつも笑いの絶えない自己紹介コーナーもありです。下手なお笑いよりも面白いので、是非次回はご参加いただければと思います。(笑)
さて、ここから後半に突入です。
 畑の畦道を登ると、石組みが見えてきます。そんなに大きな石組みではありませんので、見過ごしやすいと思います。これが<塚本古墳>です。

「え?単なる石組みじゃないの?」と思われる事でしょう。古墳の規模は周辺の発掘調査から、南北39.5m、東西39mの方墳だったろうと考えられています。飛鳥川の左岸、山頂から南東方面に延びる尾根の先端を切断して二段以上に築造された方墳と見られているそうです。石室構造から、七世紀前半の、石舞台古墳に近い時期と構造を持っていたのではないかとされています。

今は、石が随分剥ぎ取られてしまい、言われなければ古墳だとは思えない姿になっています。
飛鳥稲淵(いなぶち)・・・飛鳥時代、南淵請安(みなみぶちのそうあん)と言う学問僧なる人物が住んでいたので、南淵と言ってたそうです。遣隋使で小野妹子に従い、留学僧の一人として隋へ留学し、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞し、隋と唐の進んだ学問や知識を日本に持ち帰ったとされています。彼の開いた塾で学んだ中大兄皇子と中臣鎌子はその後大化の改新で蘇我氏を打倒したと伝えられるから、なんとも面白い。大化の改新後に彼の名前は一切出てこないのも、興味深い。南淵から今では稲淵と地名も変わっています。
毎年稲淵では田に案山子をしつらえていて、それが今ではコンクールにまで発展して、秋の実りの頃は沢山の案山子と、見物客で賑わい<案山子ロード>と言われるようにまでになりました。

画像は大案山子で、これは一年通じてみる事が出来ます。一つの目印になっているみたいですよ。(笑)

飛鳥好きの中には、この稲淵からの景色を見るために、飛鳥に通ってくる人も多いくらいで、春は蓮華、菜の花、夏は向日葵、水葵、秋は黄金の稲穂と案山子、冬は雪と綱掛け神事・・・いつ訪れても、楽しませてくれる場所です。

私は風・・・棚田を吹き抜け、草を揺らす風に魅力を感じます。その風に吹かれたくて、また飛鳥に来る気がします。
飛鳥の<とんど焼き>のやぐらが見えてきました。集落ごとに設えられているようです。これはまた後でお話をすることにして、今は先に進みたいと思います。

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