〜 新春飛鳥詣 その4 〜
2008年1月3日
 川原寺跡の横を抜け、甘樫の丘をめざす一行の目に立て看板の文字が飛び込んできた。

 「ここは木材の耐朽性試験地です。非常に重要な試験杭を設置しています。立ち入りを禁じます。奈良県

 画像左中央に短い杭が打たれているのが見えますでしょうか?これが試験杭です。一定の期間で、どれだけ木が朽ちてゆくのかを見ているのです。その結果が、今後の遺跡調査に役立つのでしょうね。根気のいる仕事です。
 これが甘樫の丘。今は発掘調査もされているんですよ。

 お正月なので、車がやたらと往来していますが、普段は往来する車も少ないですよ。画面左方面に壷坂寺右方面に橿原神宮があります。
 たて看板をそのまま撮影。(^^;

ももさんの姪御さんに「何してるの?」と聞かれ、「レポを書くときの参考にするのよ〜」と答えました。参考にせず、ペッタンしただけでした、すみません。(笑)
 これがその奈良文化財研究所が調査中の遺跡です。発掘すると、比較的新しい(平安時代?)陶工釜?の遺跡が見つかった事から、今はその調査中。その下に古い時代の遺跡の層があると言われていて、複雑な様子がうかがえます。
 意外と浅い部分ですよね。これからまだまだ掘り進めば、蘇我氏の館跡などが出てくるのではないでしょうか。

 装飾の埋蔵なんかがあると、Pは小躍りして喜ぶのですが・・・さて、出土はなるか?
 甘樫の丘から畝傍山が見えます。

 畝火山とも明記され、火がうねる事から名前がついたと言い伝えられています。古代人は畝傍山が火山だった事を知っていたのではないかとも思われる。

 畝傍山、耳成山、香具山で「大和三山」と言われます。畝傍山の麓に橿原神宮があります。
 <マユミ>

 ニシキギ科

 マユミは真弓と書きます。
弾力があって堅硬な材が弓に向くのだそうです。

 また、種子を抱くように実る事から「繭実:まゆみ」としたのではないかと言う説もあります。
 以前、太古さんが真冬に咲く甘樫の桜を撮影されていたのには驚きました。その撮影場所に案内頂き、本当に満開だった事を知りました。

 <ヒマラヤ桜

 12月中旬から下旬にかけて見頃になる常緑の桜です。1968年にネパールの皇太子より贈られた種子が育った事から、ヒマラヤと言う名前がついたそうです。

 采女乃 袖吹反 明日香風
   京都乎遠見 無用尓布久


読み:うねめの そでふきかへす あすかかぜ
 みやこをとほみ いたづらにふく

訳:采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今はただ空しく吹いている。

 この歌を詠んだ志貴皇子は、天智天皇の第七皇子。

 694年12月、持統天皇は明日香から北にある藤原に遷都。皇子は旧都に佇み、吹く風の中に美しい采女の幻想を懐いて詠んだ歌です。

*注釈:「采女」とは、古代、朝廷に仕え主に天皇の食膳の奉仕をした下級の女官のこと。
 甘樫の丘を下りると、土塀の家があります。昔はこんな風景がどこでも見られましたが、現在は少なくなりましたね。

 京都より奈良に惹かれる要素に、こんな風景があります。決して煌びやかでもなく、絢爛豪華な装飾品があるわけでもありません。

 どちらかと言うと、田んぼに畦道、今は無き塔の礎石、礎石があった窪み・・・想像でしか見られない部分を、飛鳥の空気を感じ取りながら思い描くところに良さがあるのではないかと思うんです。

 Pは、古い歴史を沢山知っているわけでもなく、神様の事を沢山知っているわけでもありません。どちらかと言うと、知らない人間だと思っています。

 でも、そんな人間でも、空想をする事は自由であり、楽しいと感じるんですよ。

 また、万葉集などに詠まれている風景がまだ残っていたり、木が残っていたりすると、涙が出そうなくらい嬉しい。その思いがまた、Pを飛鳥へと導いてくれる・・・そう思います。
 甘樫の丘を抜けると、旧明日香小学校に辿り着きます。自動車道を避けここを通り抜けて飛鳥寺へと歩を進めます。
 <飛鳥庵

 ここがいつも飛鳥の仲間が休憩させて頂く飛鳥庵です。到着した時、飛鳥庵のおばちゃんは外出中。風人さんがお店を手馴れた手つきで開けてくれました。

 飛鳥寺と蘇我入鹿の首塚との間に建っています。休日ともなると、仲間の誰かがここに座っていると言う、摩訶不思議なお店。(笑)

 とても気さくなおばちゃんが、美味しいコーヒーと手作りのわらび餅でもてなしてくれるんですよ。

 と、中から何やら持ち出してくる人が・・・!?

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