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〜 両槻会第七回<道長が見た飛鳥>その2 〜
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2008年3月22日

 東大谷日女命神社を巡った後、オプションで講演前の散策をする班と、講演会場の設営班とに分かれた。私はサブスタッフなので<会場設営班>だった。

 散策班と分かれてから、風人さん、ももさん、若葉さん、そして私は山田寺横の椅子に腰掛けて、お弁当を食べた。ももさんがくれた<桃のど飴>ホッと和むひととき。

 本日の講演会場である<飛鳥資料館>へ行き、机、椅子、先生のお茶の用意をし、資料などすんなりお配り出来るよう整えた。
 <道長とは・・・>

 前日、次男、三男に同じ質問をしてみた。

 三男のたけさんは「あぁ〜源氏物語のモデルでしょ?」と言い

 次男のパンダは「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば・・・でしょ?」と言った。

 どうやら、私より詳しいらしい。(涙)

まぁ、そんな私も、ちゃんと予習したから今回はまだすんなり理解(いや、半分ぐらいか?)出来たような気がする。うん、気だけだろうが・・・。

■ 藤原 道長:ふじわら みちなが ■

*誕生・・・康保3年(966年)

*没・・・・・万寿4年12月4日(1028年)1月3日(ってことは、62歳、享年63歳?)

*平安中期の公卿(くぎょう)。

   父:藤原兼家(のちの摂政)
   母:時姫(摂津守藤原中正の娘)

    その両親から生まれた五男。

父が他界後、摂政となった兄二人(道隆・道兼)が次々と病没し、政敵となった兄(道隆)の息子:伊周(これちか)が失脚し、左大臣となり朝政のトップとなった。

一条天皇長女の彰子を入内させ、中宮とする。
三条天皇次女の妍子(けんし:きよこ)を入内させて、中宮とする。

しかし、三条天皇とは対立して、天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇を即位させ、自分は摂政となる。

     と、こう書けば、相当な悪人のイメージが出てきませんか?
     しかし、それだけではなかったからお立会い。ヾ(・・;)おいおい


1年ほど経ったある日、摂政を息子の頼道に譲り、後継体制を固める。

後一条天皇三女の威子(いし:たけこ)を入内させて、中宮とする。

これがいわゆる「一家立三后」と世間を驚嘆させた。

     講演会の前日、幸運?にも某国営放送がこの道長の話を放映していたので、
     じっくり観ていましたが、そのTV局はとても道長に対し好意的に描いていました。

この「一家立三后」は、実は皇位継承の争いを避けるためだった!と言ってました。

     果たしてそうなのだろうか???

後に太政大臣となり、位人臣(くらいじんしん)を極めた後に出家するが、息子の頼道を後見し続けた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。

若い頃道長は豪爽な性格だったらしく、『大鏡』には面白いエピソードが残っている。
<父:兼家が才人である関白:頼忠の子の公任を羨み、息子たちに「我が子たちは遠く及ばない、(公任の)影を踏むこともできまい」と嘆息した。道隆と道兼は言葉もなかったが、道長のみは「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と答えた。>

    心の中では、相当な闘志を抱いていたに違いないと私は思う。


道長は藤原実資(ふじわらのさねすけ)に向かって、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだ。実資は返歌の催促を丁重に断り(さすが実直な実資)、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同がこの歌を繰り返し何度も詠ったらしい。この話は、実資本人が書いた日記「小右記:しょうゆうきorおうき」に出てきます。

    しかし・・・こんな下手な捻りの一切無い歌を何度も詠ったとは・・・悲しさが漂いますね。
    傲慢な感じがして、好きじゃないです、この歌。裏読みしたとしたら、月も欠ける事がある
    のだから、私の栄華も落ちぶれる事があるかも知れない・・・って読めないか?
    しかしこの時代、しかも娘の婚儀での歌に、そんな暗い影はみじんもなかった・・・
    と見た方が正しい。となると、やはり傲慢だな、この男。(オイ)
    
    実はこの歌、ご本人は気に入らないらしく、歌集「御堂関白集」には一切記載されていない。
    ってことは、歌は上手く詠めないが、選ぶ眼力はあった???摩訶不思議。(笑)


   
文学を愛好した道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている。

体が弱く、病気がちで、晩年は当時<飲水病(今で言う糖尿病)に侵されていた。だから、神仏への信仰心は相当厚く、京から飛鳥へ向かった理由は<高野山参詣>の途中立ち寄った事から話が始まる。

この「道長が見た飛鳥」は、治安3年10月17日から11月1日までの間に行われ、主な事は修理権大夫の源長経が、道長の命により記した。また、皇円が撰者となって書かれた「扶桑略記」、実資が書いた日記「小右記:しょうゆうきorおうき」と照らし合わせて浮かび上がってきた話しだ。しかし、政敵でもある実資が書いた日記は、あまり好意的とはいえない部分も多々ありで・・・。そう言うところも踏まえて、今回先生のお話を興味深く拝聴する事とする。

 
■時は、治安3年10月17日 

出家した道長は、紀伊国(今の和歌山県)にある金剛峰寺(こんごうぶじ:今で言う高野山一円境内とする寺全体を指す)へ詣でる旅に出た。

お供の者総勢16名(本当は17名だったらしい、意外とアバウト)従え、京を出立。宇治殿で御膳(ご馳走)を頂き、東大寺で宿泊させてもらう。

今回、金剛峰寺までの道のりで、「七大寺」や所々の名だたるお寺を拝見するのも、楽しみだったと言っている。

この「七大寺」とは・・・
東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・法隆寺を指す。
時は・・・18日。

大仏に礼し、寺内東にある山の上の堂に行ったが、銀丈六盧舎那仏像を安置しているにはあまりにも銀像の大半を盗賊に持ち去られ、見るも無残な形になっていたのを見兼ね、修理を命じた。

こう言う部分、やはり信心深さがうかがえる話しですね。

興福寺、元興寺、大安寺、法蓮寺(石上寺)を巡って、飛鳥の山田寺に至る。

やっとここからが飛鳥のお話になります。(爆)

■時は、19日。

【 山田寺 】

「堂中奇偉を以って荘厳す。言語云(ここ)に黙し、心眼及ばず。」だったと書かれている。

     *奇偉とは・・・並はずれてりっぱであること。
     *荘厳とは・・・おごそかでりっぱなこと。
     *心眼とは・・・物事の真実の姿を見抜く、鋭い心の動き。

相当な歓迎を受けたのでしょうね。この後、山田寺の権大僧都の扶公は馬一疋(き)を貰ったそうだ。創建以来、四大寺、五大寺などに名を連ねる事のなかった山田寺だが、天智・持統・天武天皇などの助力を得て、天武朝の時代は、官寺並みの扱いを受けたが、官の援助が途絶えた奈良時代後半から衰退が始まり、道長が訪れるまでの約300年ほどの間、記録にもほとんど出てこない状態だった。

      そんな事から、道長が訪れると言う幸運が巡り、相当喜び
      お世話をしたのではないかと思われる。
      「な〜んだ、それで馬一疋じゃ〜割りに合わないじゃん」と言うなかれ。
      当時、とても大切だった馬を頂けるのは、この上ない栄誉だったんですよ。(笑)


【 本元興寺(現:飛鳥寺) 】

次に訪れたのが、本元興寺(現:飛鳥寺)。

宝倉を開いて見ると、中に此和子(どうやら女性の名らしい)の陰毛があった。さながらカツラのようだった。その長さはわからない。

      この陰毛、どうやら本当にあったらしく、粘菌(ねんきん)研究で有名な学者:南方熊楠
      (みなかたくまぐす)が、友人の文学者:柳田国男(やなぎだくにお)宛てに、明治44年
      8月12日付けの書簡に「此和子は女の名と見えたり。何のことか不詳。ここは七難の
      名なし。」と書いている。


      第二次世界大戦当時、「女性の陰毛を身に付けていると、鉄砲の弾に当たらない」と
      実しやかに言われていた事と関係するのだろうか・・・と、フッと思った。いや、私は戦後
      生まれなので、実際の話は知らないが、そんな事をTVか映画で観た記憶がある。


道長さん、この陰毛に驚き、とうとう鐘堂の鬼頭を探し出せないで出立の時刻を迎えてしまった。

      なんともユーモラスな一面も持ち合わせていたようです。

【 橘寺:たちばなでら 】

その次に訪れたのは、橘寺。

宝倉を開いて中を見た。見るもの意外と少なく、聖徳太子が「勝鬘経:しょうまんきょう(仏教における大乗経典のひとつで、正しくは『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』と称する。)」を唱えた時、天から降ってきたと伝う曼荼羅花や曼珠沙華を見たいと思っていたが、どこにもそれらしき物はなかったので、とても残念に思った。

      曼荼羅花は、白い花とされている事が多い。「法華経」序品に、仏が法華経を説いた時、
      天が曼荼羅花、曼珠沙華などを降らせたと言う話が載っている。「聖徳太子伝暦」に依る
      と、天皇は太子に「勝鬘経」を唱えるよう頼み、3日たったころ、太子は袈裟(けさ)を着て
      塵尾(しゅび:人を統率するものの意味)を掘り、師子の座(ししのざ:説法をする場所)
      に登った。まるで僧のようだった。講を唱えた夜、蓮花がたちまち天から降った。花の
      長さ二三尺(1尺約30cmとすると、60〜90cm)明朝、天皇は珍しい事もある物だと、即刻
      その地(蓮花が降った地)に伽藍を建立させ、今の橘寺となったと言い伝えられている。

      でも・・・なかったんですよね。たとえ降ったとしたって、何百年も花がそのままある訳は
      無いような気がするけど・・・しかし、見たかったんでしょうね、道長さん。
    
      ざっと、ここまでが飛鳥です。


【 竜門寺 】

今度は竜門寺に行きますが、竜門寺は今で言う桜で有名な吉野町山口にあったお寺です。

      竜門寺は、仙人が住むと伝えられる洞穴があり雲が深く、昼間でも暗く、青苔の巌は
      尖り、瀑布(ばくふ:高い所から白い布を垂らしたように、直下する水の流れ。滝のこと)
      は水が飛び散るほどであった。ほとんどの人間は、この風景を見ると、帰るのを忘れる
      くらいであろう。仏を拝んだ後、泊めてもらうことにした。

      宇多上皇の宮滝御幸を描いた、菅原道真「宮滝御幸記略(仮)」にも、落ちる涙を抑え
      きれず、ほとんど帰ると言わず、上皇は仏門に安座して、ひどく滝に感動し、みんなに
      歌を献じるよう命令したと記されているので、前総州刺史の孝標は、「自分も菅原道真
      や宇多上皇と同じ気持ちなんだよ〜」と、歌を詠み、事もあろうに菅原道真が素晴らし
      い歌を書いたと同じ扉に自分の歌を誰かに代筆させて書かせたんだよ。神様と言われ
      たあの菅原道真さん筆の上にね。なんと心無き行為だろうか。道長の歌を消すのに、
      壁粉を使った。儒胤(儒教の学者の子孫:道真)のくせに、えらく下手な歌だと、人々が
      嘲り笑ったよ。と、やや悪意ありげな文章でその時の様子が描かれている。

      孝標さん、結構世間的には疎い人だったのだろうか?
      井の中の蛙・・・だったのだろうか?
      人のふり見て、我がふり直せ。私は天狗になれるような物を持ち合わせてないので、
      天狗になりようがないけれど、やはり人として
      「実るほど頭を垂れる稲穂かな」でありたいと思う。

      
■時は、21日。

吉野川で船に乗り、午の刻に高野政所に着く。申の刻、山中の仮宿をめざす。以前は馬で行った
が、今回は藁草履で行く。

      今回はいわば、修行の旅でもあるので、自分の足で行きたかったんでしょうね。

■時は、22日。

内大臣の教通たちが、朝の雨の中、徒歩で追って来た。申の刻、金剛峰寺に着く。明日の法会の
ために僧30人に法服を与える。

      さすがですね。30名の法服をポンと与えるとは、太っ腹vv

■時は、23日。

法華経の一部、般若理趣経三十巻を供養した。
この時、左衛門督の藤原隆家がやって来た。申の刻、金剛峰寺に帰る。蔵人右馬権助源資通、
天皇の手紙を伝える。

■時は、24日。

政所を目指す。山中の仮屋にてご馳走を受ける。未の刻、雨が降ってきた。しかし、徒歩で降りる。
丑の刻、政所御宿に着く。皇太子、三后の使が来た。

■時は、25日。

大僧正の家に着く。引出物あり。申の刻、平維時の家に泊まる。簾・帷(とばり)に飾りを加え、
盃・盤は大変珍しい物だった。

■時は、26日。

維時に馬を与えた後、法隆寺に着く。夢殿、その他色々な宝物を見る。道長歌を詠む。

   「   王乃    御名乎者聞土 麻多毛三奴 夢殿麻天仁     伊賀手木津覧  」
     おおきみの みなをばきけど まだもみぬ  ゆめどのまでに  いかできづらむ

古今に秀でた歌は数々あるけれど、この歌の右に出るほどの歌はあるまい。

      ここまで来ると、超嫌味でしょう?歌を詠う方もだけど、日記にそう書く方もね。。。
      実際、本人に言えないから、文章で書いたの?って、思ってしまう。
      え?日記にグチャグチャと愚痴を書いているお前にそっくりだって?m(__)m


■時は、27日。

お供の者2名、ワケあって京に戻ってしまった。他の者、夕刻には河内国(今で言う大阪府)道明寺(どうみょうじ)に到着。国司の役職にある菅原為職は、お寺を綺麗に飾り、朝夕の儲け(食事など)もおろそかにせず、しっかりともてなしてくれたと記されている。
■時は、28日。

摂津国(今の大阪市)に入り、午の刻、四天王寺に到着。別当である定基の家でご馳走になり、仏舎利などを見て、摂津国府大渡(おおわたり:現在の淀川河口)から船に乗った。

■時は、29日。

風も静か、波も穏やか・・・絶好のコンディション。きっと心ウキウキだったに違いない。が、そこで事件が勃発!

昔遊んだらしい遊女が道長が来ていると聞きつけて、挨拶に来た。「勘弁してくれよぉ〜」と、心で叫んだに違いない。「その遊女の身の上を憐れんで米百石を与えた」と書かれているが、[古事談]巻二には「赤面しつつ、道長は着ていた着物を遊女に与えて、早々と帰ってもらった」と記載されている。

若気の至りを今頃蒸し返しに来た遊女に着物を与え、早々と追い返した・・・これがどうやら真実じゃないかと、先生が仰った。私もそう思う。今も昔も・・・男性ったら(笑)
■時は、30日。

申の刻、山崎(今の大阪と京都の県境)の岸辺で船を降り、山崎にある関の外院に到着。この院の主である前肥後守である公則は、寝殿を飾り、庭を綺麗に掃除し、最善のご馳走も用意し、道長が来るのを待っていた。そのご馳走を盛り付けた鉢は銀製で、当時としてはこの上ない上物だったが、すでに完成してあったので、道長は遠慮せずその銀の鉢で食事をしたとされる。

前肥後守の公則さんったら、随分頑張っちゃったわけね。なんか、時代劇のお代官と●●屋の関係みたいだと、密かに思った・・・。その後の公則さんが、出世したかどうかは定かではありません。あしからず。(* ̄m ̄)プッ
■時は、11月1日。

丑の刻、京に入る。桂川の辺りで、夜が段々明けていく。霧が野に満ち、霜が衣を濡らす。七条河原を経て、法成寺の御堂に入る。

記念すべき第一回定例会は、奈良大学の滝川助教授にお願いをして「吉野宮滝への道」と題し、菅原道真の「宮滝御幸記略」をめぐっての講義をしていただきましたが、その時、菅原道真は天皇の命で宮滝へ急に出立したものだから、どこへ行っても急ごしらえで、ご馳走にはなかなかありつけなかった。しかし、今回藤原道長は、上手く根回しをしていたようで、しっかりとご馳走になり、大歓迎を受けた事が良く判る。「御膳を供す」と、行く先々の日記に書かれているが、どんなご馳走だったかは一切記されていない。私としては、片鱗でも見えたら・・・と、先生に質問させて頂いたけれど、やはり一文字さえも出て来ないと言われた。どうしても知りたければ「延喜式:えんぎしき(延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長5年(927)成立。康保4年(967)施行。)」になら、食べ物の話が結構出てくると教えて頂いた。いつかじっくり読みたい。(漢文だろうから、無理)

滝川先生の講義は、本当に楽しくて良く理解出来ます。質問にも、いつも丁寧に答えて下さり、本当に感謝です。来年の今頃、今度はかぐや姫?など、やって下さるのかな?また、楽しみにしたいと思います。

事務局の皆さん、サブスタップの皆さん、お疲れ様でした。m(__)m

バスの時間が上手い具合になくて、橿原神宮前駅までみんなで歩いた。
説明のところで、色々な花をあしらいましたが、それらは帰る道中で見つけた花たちです。

最後に某さんが仰った

「Pさん、歴史を知らないわりに、笑うツボは心得てるねぇ〜、絶対外さないよね」

はいはい、ありがとうございます。m(__)m
これでも事前に資料には目を通させて頂いております。
(しかし、漢字ばかりなので、そのほとんどを飛ばして読んでいた為、理解していなかったらしい)

事前に勉強した点と先生が話して下さった点が、合致した時、嬉しさがこみ上げますねvv

若葉さんが、クッキーで<瓦の文様>を作ってプレゼントして下さいました。リュックに入れて持ち帰った為、割れちゃいましたが、雰囲気だけは見ていただけるかとUP致しました。若葉さん、本当に器用ですねvvとても美味しいナッツのクッキーでした。ご馳走様でした。次回も宜しく〜m(__)m

両槻会は、事務局員並びにサブスタッフ、そして参加者全員が楽しめる会を目指しております。メルマガも頑張って発行されています(事務局員さんが)。どうぞ気軽にご参加下さい。

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