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〜 地下の正倉院展〜その2 〜
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2008年11月 6日(木)

 <地下の正倉院>の第二弾が開催され出しました。今回は、前回よりも興味深い展示物があって、わくわくと眺めさせて頂きました。その事は最後に書かせて頂くとして、先ずは<地下の正倉院>が開催されている平城宮跡資料館を後にしてからのレポを書かせて頂きます。

 私と笑いネコさんは、平城京から長屋王邸があった場所まで歩いて行こうと言う事になり、草刈の後の草が枯れて良いクッションになっている土地を歩き始めた。車の轍(わだち)が硬く残っている上に敷き詰められたように草が枯れている。フカフカとなかなか心地よかった。

 と、目の前に建物の基礎のようなコンクリートが、迷路のように残っていました。説明書きが残っていました。
【 兵部省:ひょうぶしょう 】

 兵部省の跡。兵部省は奈良時代の官庁の一つで、兵士、兵器、軍事施設の管理や武官の人事を担当していた。壬生門北の広場をはさんで東側の式部省(文官の人事を担当)と対称の位置関係にある。

 約74m四方の敷地内には、立派な礎石建物8棟が整然と建ち並んでいた。建物の中では帳簿の管理や勤務評定などの事務をとり、外の広場では儀式などを行った。地面から1.2mの高さで建物を切った上体で復原した。
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 と、書かれていました。凄いコンクリートの基礎で復原されていますが、実際、当時の基礎ってこんなんじゃ〜なかったでしょ?その時代、まだ生まれてなかったので(当たり前!)実際を知らない者としては、復原って感じじゃなく、花博が終わった後の鶴見緑地の残骸を見る思いで眺めました。とてもじゃないけど、ここから建物や当時の人間の往来などは想像出来ないな・・・。
 上の画像は、南側でしたが、この画像は北側を撮影しています。その丁度後ろを、近鉄電車が走り抜けて行きました。
 朱雀門(すざくもん)です。朱雀門をくぐるようにして、朱雀大路が通じています。平城京があった当時、ここはメインストリートで、沢山の人が往来していたのでしょうね。どんな話をしながら朱雀門をくぐって行ったのでしょう。思わず耳をそばだててみたりして。(笑)
 赤い丸の部分が平城宮跡資料館のある所辺りです。第一弾のレポには、丁度この反対(赤い丸の部分から見たこちら側)から見た風景を撮影していました。間に何も建っていないので、とても広く感じられますね。
 ニシキソウでしょうか?オジギソウの様な葉を持っていました。
 現在地。また足元に地図がありました。(笑)でも、この地図があるから、Pのようなド素人には地理が良くわかるってことで・・・ありがたや〜(−人−)

 しかし、この地図で見ると、平城宮跡資料館までとても近く見えるんですけどねぇ〜、実際は上の画像のように、結構距離がありますよ。話をしながら歩いたので、まだ感覚的には近く感じましたけれど。悔やまれるのは、時間を計っていなかったこと。「来い!」と言われて、どれぐらいの時間で歩いて行けたんだろう・・・次回は時間を見ながら歩きたいと思います。
 平城京があった時代、長屋王は大極殿まで参内(さんだい:宮中へ参上すること)するにあたり、徒歩では行ってはいない・・・だろうと想像する。たぶん馬での移動だったんじゃないかと思う。絵などで見る武将が乗っている馬は、今で言う競馬の馬のようにスマートですが、昔の馬って、足が太くて、ずんぐりむっくりした道産子馬のよう感じだったんじゃないの?ってことは、絵にしてもカッコ良くないよな〜(笑)

 ちなみに、魏志倭人伝には「かの地に牛馬無し」と書かれているので、馬はどこかから渡来したのかも?と思ってもみるのですが、平城京があった時代より以前にも馬具など発掘されているので、沢山いたかどうかはわかりませんが、日本にも野生の馬が存在していても決しておかしくはないでしょうね。

 元弘3年、かねてより幕府に不満を抱いていた新田義貞(上野国の御家人)は、後醍醐天皇の幕府追い討ちの令旨によって、鎌倉幕府を攻めましたが、その当時の人馬の骨が多数出土しています。そのデーターによると、馬の平均体高(地面から肩までの高さ)は130cmだと言う事です。現代にも生息している木曽馬やモンゴル馬も、ほぼ同じくらいの大きさなのだそうです。

 ちなみに、現在の馬と言われるサラブレッドは、短距離を早く走られるようにつくられた馬で、平均体高は、160〜165cmあり、足にはほとんど肉がなくて細い細い。(笑)
 またまた絵付きの説明書きを見つけました。平城京跡には、こんな絵付きの説明書きが沢山点在しているのですね。ヘタ(オイ!)に復原するより、よっぽど良いですよね。空想する余地が残されていますし。(笑)
 これが上記の説明書きの復原・・・。

【 二条大路と壬生門 】

 二条大路は、幅約35mで朱雀大路につぐ規模をもち、平城宮南辺を東西に通る。平城宮の正門の朱雀門、南面東門の壬生門、南面西門の若犬養門は、この大路に面して開いていた。

 奈良時代の後半になると、壬生門が朱雀門にかわって実質的には平城宮の正門として機能するようになる。

 二条大路の南の地域は、宮城外の役所などとして利用され、平城宮に準じた重要な地域である事がわかってきた。

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 奈良時代の後半には平城宮の正門になったのには何かワケがあるわけ?(コラコラ)
【トベラ】

 トベラ科 トベラ属

 当初、シャリンバイだと聞いたので、そう表記しましたが、後からトベラと言うことが判明したとメールを頂き、訂正させて頂きます。すみません。m(_ _)m ペコリ

 実は秋に黒褐色に色づき、やがて3つに裂開して、中から赤い種が粘液のような物に包まれて出てくるのだそうです。

 と、前回訂正をさせて頂きました。すっかりこれをシャリンバイだと思い込んでいましたが、本当のシャリンバイが見つかりましたので比べてみてください。
 こちらがシャリンバイです。

 【シャリンバ:車輪梅】

 バラ科 シャリンバイ属

 葉っぱがテカテカしていて肉厚なのがトベラ。薄くて光沢が無いのがシャリンバイみたいですね。
 *上部の画像・・・発掘中の長屋王邸跡(東南から)

 *下部の画像・・・長屋王邸の復元図(東南から)

 当時、沢山の人がこの地を往来していたのでしょうね。今の平城京から長屋王宅までの道は、とても静かで、時折散歩や観光者をみる程度です。


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これが<木簡:もっかん>と言う木片です。

今で言う手紙や、メールって感じでしょうか。
「荷物をこれだけ送ります。誰それに持たせます。」とかね。(笑)

墨って、意外と残るのだそうです。
ペンや鉛筆などよりも、ずっと後世まで残るので
残したい文書などは墨で残して置くのが一番だって聞きました。
が・・・苦手なのよね、筆文字って。
後世に残るって言うけど、「ヘタな字だったんだな〜」なんて
そんな事まで残るのは嫌だな〜って思ってみたり。(爆)
誤字脱字も気をつけねば「うちのご先祖は、アホやったんや」って
後々まで言われるのは辛すぎるかも。(><)

 当時の地図です。これを見ると、平城京の大きさがよくわかりました。やっぱり「お〜い、参内せよ!!」って言っても聞こえんわ。(笑)

 長屋王のお宅、平城京のはずれに位置していますが、ここはまだ近い方です。

 当時の人は、どれぐらいの時間で歩けたか・・・。今の人間って、歩く事が極端に少なくなっているので、「さ、歩け!」って言われても、きっと歩けないでしょうね。

 子育てをしていた間、私はほとんど自宅から外に出ませんでした。するとね、歩けなくなるんです。歩くのが下手になるって言うんでしょうか。歩けるには歩けるのですが、なんだかぎこちなくて、まるでゼンマイ仕掛けのロボットみたいで笑ってしまった。歩かなければ、歩くのが下手になる・・・。当時の人はきっと歩きなれていただろうから、意外と早く平城京まで歩けたのかも知れない。

 今は、電車通勤1時間って当たり前ですが、当時は徒歩1時間ぐらいは当たり前だったのかも知れませんね。
 某お店が建っています。ここの駐車場から上にある画像の木簡が出て来ました。これが世紀の大発見や〜♪です。(笑)

 笑いネコさんが「駐車場に碑があったのをネットで見たのよ!!」って仰るので「じゃ〜探してみますか?どうせ暇だしvv」と、二人で建物の外をぐるぐる・・・。(爆)
 ありましたよ〜(^0^)/

 建物の北東角(駐車場に面した場所)に、小さく碑がありました。やはり木簡の事が書かれていました。
 これら長屋王の木簡が発掘される前は、貴族の生活などほとんど資料がありませんでした。この木簡が発掘されると同時に、貴族の華々しい生活が目の前に飛び出してくるような、衝撃を受けたでしょうね。

 長屋王が鮑好きさんで・・・なんて残ってますしね。(笑)その他に、色々な食材が長屋王邸に届いていた事が手に取るように見て取れるわけです。
 以下四枚の絵は、それぞれ平城京跡からの出土品をPが描きました。正確さはやや欠けますが、こんな感じだったと、ある程度把握して頂ければと思います。

 【革帯につけられた金具】ですが、複製品が置かれていました。今のベルトと言っても疑わないと思うくらいに、現代のベルトそのものでした。

 金具は、銀や銅を使って作られていたようです。ちゃんとバックルがあったのには驚きました。(笑)
 羹(あつもの)とは、汁物(今のスープ)の事です。天辺に甕(かめ:現代で言う鍋)を置けるようになっていて、下からの火で煮ました。ちゃんと空気穴もあって、意外とよく燃えたんじゃないかと思います。

 甕って、底が丸いのを見た事がありますが(藤原京遺跡で出土した物)、これがそうなのかは解りませんでした。

 笑いネコさんが「儀式に形だけ使うミニチュアのようなのがあるのよ」と仰っていましたが、丁度一緒に展示されていました。本当にミニチュア版で、そのまま小さくした形をしていました。祭礼などで使われたようです。
 【高杯】
 今で言う、フルーツ皿のような形と言えばわかりやすいですか?普通のお皿よりも高く作られています。天辺のお皿の部分は、中心部分が微かに窪んだように見えました。

 【木の桝】
 中をくりぬいてつくられているように見えます。とても綺麗に中が四角くなっていました。上下対角に丸い穴が開いていました。紐かなにかで結んでいたのでしょうか?使い方は説明されていませんでした。

 【平瓶】
 尿瓶?って思いましたが・・・だって、そっくりな形なんですもの。(爆)口が広くなっているのは、入れやすく出しやすいようにでしょうね。入れるのはココだけですから。お茶瓶とかなら、上から入れるところがあって、口から出しますが、これは入口も出口もココ一箇所だけですので。
 【火きり臼(うす)】
 火きり臼って言う表示の木片がありました。薄くなって読めなくなった文字の様なものが微かに見られました。もしかすると、木簡の再利用で作られた火きり臼かも知れません。包丁のような形で、横側に所々半円のようなくり貫いた跡があります。

 私は火きり臼を知りませんでした。火を切る道具ってことで、火を消す何かか?と思いましたが、これが全く反対の意味がありました。

 火をおこすため、火きり臼と木で作った細長い棒(火きり棒)を合わせて、擦り合わせると、その摩擦によって白い煙が出て、黒い墨粒のような物が出来、その炭粒に火種が出来るのだそうです。その火種を植物のぜんまいの綿に落として息を吹きかけると、炎が出て火がいこる。って、これはすごい労力が必要だったんじゃないかと・・・。しかし、慣れてくると1分ほどで火がいこるらしいです。慣れって凄いですね!!

 我が家の薪ストーブも、火をいこすのにコツが必要です。慣れない間は、白い煙で部屋中が充満してしまい、とんでもなく煙いのですが・・・屈折3年。やっと最近、部屋中煙だらけにせず、火をつけることが出来るようになったPなのでありました。(笑)

 
 【しゃもじ】
 今で言うスプーンでしょうか。一番上のしゃもじは、左部分が持ち手部分(右)よりもやや斜めになっていました。1本の板をくりぬいて作ってあります。

 二番目のは、少し誇張をして書いてあります。持ち手部分が太く、握りやすくなっていました。

 一番下のは、バターナイフのような感じの、やや小さめのしゃもじでした。当時バターはまだ渡来していませんので、かき混ぜ棒のような役割だったのでしょうか?あ、これはPの想像です。

 【箸:はし】
 聖徳太子の時代に、ようやく日本にも箸が伝わり、貴族の間で使われ出し、長屋王の時代には一般的に利用されていたようです。左右同じ太さの物、食べる部分がやや細くなっている物、木に節があったのか、曲がったままの物もありました。今の割り箸とそんなに違いはありません。ただ、割るか割ってあるかの違いじゃないかって言うくらいですね。面取りとかはなされていませんし、塗りも施されていませんでした。普通の木肌のままです。


 【長屋王木簡に見る貴族の食材】


〔穀物〕
 白米 ・ 黒米 ・ 赤米 ・ 赤舂米(あかつきごめ) ・ 酒米(さかごめ) ・ 糯米(もちごめ) ・ 飯(こわめし) 
 粥(かゆ) ・ 大麦 ・ 小麦 ・ 大豆 ・ 小豆

〔水産物〕
 あらがつお(甘塩のカツオ) ・ 煮かつお ・ 麻須楚割(ますのすわやり:鱒の塩辛) ・ 鮭 ・ 佐米(さめ) 
 礎鯛(いそだい) ・ 黒鯛 ・ 鯛舂鮓(たいのすきすし:鯛の押し鮨) ・ 鯖(さば:正確には月ではなく円です)
 旧鯖(これも月ではなく円です) ・ 鰯(いわし) ・ 鯵(あじ) ・ 赤魚(あかうお) ・ 世比魚(せいうお:スズキの幼魚)
 年魚(あゆ) ・ 年魚鮨(あゆずし) ・ 煮塩年魚(にしおあゆ) ・ 年魚醢(あゆのししびしお:アユの粕漬) ・ 押年魚
 鮒(ふな) ・ 味塩鮒(うましおのふな) ・ 乾白魚(ほししらうお) ・ 雑魚楚割(ざこのすわやり) ・鯉(こい)
 雑魚きたい(ざこのきたい:雑魚の丸干し:きたいは月へんに昔とかきます)

〔貝〕
 生蝮(生あわび) ・ 蒸し鮑(むしあわび) ・ 熟鮑(いりあわび:煮たアワビ) ・ 薄鰒(うすあわび:のしあわび)
 長鰒(ながあわび:のしあわび) ・ 割鰒(さきあわび) ・ 耽羅鰒(たんらのあわび) ・ 蠣たい(かきのたい:たいは月
 へんに昔) ・ い貝(いがい:いは貝へんに台です) ・ い貝鮓(いがいのすし:いは貝へんに台です) ・
 少辛螺(にし) ・ 海細螺(しただみ)

〔海藻〕
 海藻(め:ワカメ) ・ 若海藻(わかめ) ・ 軍布(め) ・ 酢海藻(すのめ) ・ 海藻根(めかぶ) ・ 広米(ひろめ:こんぶ)
 細米(ほそめ) ・ 弥留(みる) ・ 及利(のり) ・ 布及布(ふのり) ・ 紫菜(むらさきのり) ・ 小擬(いぎす:寒天の原料)

〔その他〕
 末滑海藻(かじめ:粉末のアラメ) ・ 撫滑海藻(あらめ:加工したアラメ) ・ 鹿角菜(つのまた) ・ 角俣(つのまた)
 棘甲贏(うに) ・ 水母(くらげ) ・ 鰲海鼠(いりこ:いは魚ではなく点四つだけです) ・ 烏賊(いか)

〔鳥・獣〕
 鹿宍(いのしし) ・ 猪きたい(いのししのきたい:きたいは月へんに昔) ・ 雉(きじ) ・ 雉たい(きじのたい:たいは月へんに昔)
 鶉(うずら) ・ 生蘇(なまそ:乳製品)

〔果物・菜〕
 瓜(うり) ・ 蕪(かぶら:草冠に青いの下が円) ・ 茄(なすび) ・ 蒜(ひる) ・ 干薑(ほしかじかみ) ・ 大根(おおね)
 署預(やまのいも) ・ 甘子(こうじ:みかん) ・ 伊知比古(いちひこ:いちご) ・ 梨子(なし) ・ 呉桃(くるみ) ・ 
 須々保利(すすぼり:野菜の塩漬) ・ にらき(漬物:草冠にメメ且と書く) 

〔酒〕
 清酒(すみさけ) ・ 白酒(しらき:にごりざけ) ・ 糟(かす) ・ 古滓(ふるかす) ・ 櫟(いちい:いちいの実の酒)
 難酒(かたざけ)

〔調味料〕
 塩 ・ 中酢(す) ・ 末醤(みそ) ・ 醤(ひしお:しょうゆ) ・ 鼓(くき:なめ味噌) ・ 中胡麻油(ごまあぶら)

 *現代の漢字には見当たらない文字がありました。表記出来ず申し訳ありません。
  おおよその漢字を当てながら、訂正部分を書いてありますので、参考にして下さい。

 *こうして眺めていると、現代と同じくらい(もしかするとそれ以上に)豊富な食材を使っていたことがわかりますね。

 *あわび・・・は、魚へんと虫へんとがあります。この違いはわかりません。もしかすると、まだ漢字が完成されていなくて、音だけをとって書いているか、または、間違って書かれているか・・・。あわびに種類があったとは思えませんので、たぶんそのどちらかだと思うのですが・・・。

 *確かな事は、言葉(表現)が今よりも断然豊かだったことです。多く使われている文字は、それだけ需要があって、色々に加工されて食べられている証拠ですね。

 次は第三弾・・・続けて博物館通いをやりたいと思います。v(^^)
 


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