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〜  両槻会定例会特別回 〜

忍坂街道探検
おっさかかいどうたんけん

(2009年4月18日日曜日)

主催:両槻会
協力:桜井市観光ボランティアガイドの会

 朝からすこぶる上天気に恵まれ、鶴橋駅に着くとすべるように綺麗な電車が入って来た。”大和は国のまほろば”と書かれたその電車には、奈良の平城京跡の夕暮れと短歌が書かれていました。
 大伴家持の歌ですが、この電車の各車両にそれぞれ違う短歌が書かれていました。朝から良い気分で出掛けられますvv

 今日は、バタバタで出て来たので、帽子をすっかり忘れてしまって・・・集合場所(近鉄桜井駅)に早めに到着したPは、帽子を求めて周辺を歩いた。が・・・帽子はどこにも売ってなくて、仕方なくコンビニで真っ白のタオルを購入。今日一日タオルを頭から被っての歩きとなりました。(涙)

 会計助手ってことで、挨拶もそこそこに手を出して本日の会費千五百円を参加者から没収?しました。(笑)

 今回はガイドをして下さる桜井のボランティアガイドさんと参加者13名の合計14名で、タクシー4台を連ねて「笠間辻バス停」へと向う。
 タクシーを降り、細い道を登って行きます。目印がないので、らいちさんの後ろを一列に進みます。目指すは花山塚東古墳。
 が・・・流石に慣れておられるらいちさんは、ずんずん進んで行かれます。しかし、慣れない私たちは足元を気にしながらなので、気がつけばらいちさんを見失って・・・「え?どっち???」状態になりました。(^^; 
 【花山東塚古墳】
  はなやまづかひがしこふん

 *径・・・17m
 *高さ・・・3.5m
 
 *南に開口する磚積式の横口式石槨。

 *羨道部は破壊されているため詳細は不明。壁はこの地域で産出される榛原石を積み上げて、表面に漆喰が塗られてあります。
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(磚:せん)・・・レンガの事。日本では飛鳥時代から作られていたとされる。

(石槨:いしき)・・・棺を納めるために墓の中につくった石の部屋
 左側の白い部分に漆喰の一部が残っています。もしかすると、高松塚古墳のように、壁画が描かれていたのかも知れないと、空想をたくましくしました。(笑)
 大きく撮影してみました。黒板のチョークのような感じですね。
 こちらはその反対側です。天井石は花崗岩の巨石4枚があります。

 築造時期は不明ですが、花山西塚古墳(国史跡)より低い位置、構築技法が花山塚西古墳の前室よりやや大きく造られている事から、ややこちらの(東塚古墳)の方がやや先行するのではないかと考えられています。
 【花山塚古墳】はなやまづかこふん

 女寄峠めより(みより)とうの北側山地の標高400mの尾根上に近い南斜面に築かれた古墳。先に行った花山東古墳の西側にあります。

 *径・・・16mの円墳であったと推定。

 <特徴>
 *榛原石をレンガ状に加工したものを積み上げている。

 *大きな花崗岩の天井石を含め、漆喰を塗っていたようです。

 *玄室の奥に、さらにもう一つ奥室があり、その入り口の扉石はドア状に閉めることが出来るようになっている。
 早くから開口していたため、出土遺物は確認されていないようですが、石積みの技法などから七世紀後半の築造時期で、渡来系氏族の貴人の墳墓ではないかとされている。
 ザラッとした石肌で硬そうですが、綺麗に割れるので、加工がしやすかったようですね。榛原から宇陀にかけて採れる石なので、安い費用で作れたんじゃないか?と、みんなの噂話です。
 国道166号線を西に下ってゆくと左手に小高い丘が見えてきます。ここにあるのが粟原寺おおばらでら跡です。そこへ行く前に、粟原公民館でトイレ休憩をさせて頂くことに・・・。粟原公民館は以前、粟原小学校だったので、入り口にある二宮金次郎さんの銅像が残されていました。「うちの学校にもあったあった〜」みなさん懐かしそうに眺めておられましたっけね。うちの学校にもあったっけ?覚えてない。(涙)
 さてさて、男坂おさかを登って粟原寺跡へ向かう事にしましょう。。。

 男坂おさか・女坂めさかは、「古事記」「日本書紀」にも記された古い道で、神武天皇東征の際にも通ったとされています。

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 (男坂:おさか)・・・粟原から宇陀市の半坂はんさかまで続く道、阿騎野あきのへと至る現在の小峠との説があります。半坂を「ナンサカ」の訛りとし、男坂おさか→男坂なんさか→半坂はんさかと転訛てんかしたと思われます。

(女坂:めさか)・・・大字針道から宇陀市の宮奥みやのおくに至る大峠を越える道であるとの説、もしくは現在の女寄峠めより(みより)に近い粟原川をさかのぼった峠や大字岩坂から宇陀市笠間に至る峠などの説もあります。
 ここからなだらかな坂道が・・・と思ったら、これが意外とキツイ!!
 途中の段々畑には、可愛らしい蓮華草が沢山咲いていました。ウグイスがとても良い声を聞かせてくれたので、大いに誉めてやったら、それが嬉しかったのか、益々声高らかに歌ってくれました。(笑)
 今年は、あまり蓮華草を見る機会がなくて、喜んで撮影していたら、もうみんなの姿は小さくなってて、慌てて歩き出したら持っていたペンを落としたことに気がつき、辺りをみまわすと数段下の畑に落ちていました。捨て置けずに取りに行ったけど、その分またみんなより離れてしまって、坂道を走りに走った。坂道を走ると言う経験があまりないので、これは非常に疲れました。これでほとんど今日の体力を使ってしまったように感じました。(><)
 粟原寺跡・・・この看板が、どんなに救いになった事でしょう。(笑)やっとみんなに追いつきました。
 八重桜と新緑・・・綺麗だな〜って皆さんが撮影なさっていたので、きっとどのHPへ行っても同じアングルでの撮影になっているかも。(o^^o) ウフ

 石塔の右手には碑があります。

古に 恋ふる鳥かも ゆずる葉の
  御井の上より 鳴き渡り行く 


          弓削皇子 巻 2-111

 古に 恋ふらむ鳥は ほととぎす
  けだしや鳴きし わが念もへる如


          額田王   巻 2-112

 万葉女流歌人・額田王ぬかたのおおきみの終焉の地とする伝承が遺されています。国宝、粟原寺三重塔露盤の銘文にある比売朝臣額田ひめあそんぬかたが、その人であるかも知れません。しかし、額田王は皇族なのだから朝臣とつくのがどうも腑に落ちない・・・。とは思うものの、額田王が好きな私としては、この地で終焉を迎えたと思えば、なんだか石ころ一つ一つが愛しい。

説明書きには「この事は、史的考証ではなく詩的確信です。数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩後の複雑な立場の拠り所を、この地に求めたものと想われます。天智帝の子、弓削皇子も、壬申の乱後の微妙な立場を生きました。持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡って行ったホトトギスの声に託して密かな懐旧慕を額田に訴え、これを受けた額田は、我が心と体の内外を通り過ぎていった人々の回想追慕の悲しみを詠いました。この贈答歌は、お二人の真情が惻々(しくしく)と伝わりますし、その舞台は、ただ空しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が、最もふさわしいと感じます。この地を愛し、この歌に惹かれた篤学の人、金本朝一氏の御意志に依って、この碑は建立されました。(昭和63年10月21日粟原区)」とあります。

【粟原寺跡】
   おおばらでらあと

 塔跡は、心楚などの礎石が残り一辺約6mを測ります。塔跡の西に金堂跡と推定する場所がありますが、礎石は3,4個残すのみで、しかも、一箇所にまとめてしまったような感じで、規模はわかっていません。
 談山神社蔵として残っている粟原寺建立の次第を刻んだ三重塔の伏鉢ふくばちの銘文によると、中臣大島なかとみのおおしまが草壁皇子くさかべのおうじのために建てた寺で、比売朝臣額田ひめあそんぬかたが持統八年(694年)から造営を始め、和銅八年(715年)に完成したことがわかります。

 画像左は<役の行者えんのぎょうじゃ>これはまだ新しい感じでした。近年に造られた役の行者像って、どれも似てるわ〜って思う。元があって、複製しているって感じがするだけど、どうなのかな?まぁ、ご本人を知っているって言う人もいないでしょうから、仕方ないか。(笑)
 サイレン?そう言えば、風菫かざすみれの里も、11時と12時にサイレンが鳴ります。なんでかな〜。毎日その時間に鳴るんですが、ダムの放水のサイレンなのかとも思うし、違うのかなとも思うし。

 都会には絶対に無い姿ですね・・・。
 粟原公民館に戻って昼食です。「この前までは、日向を選んで座ってたのに、今日は日陰を選んで座りたいわね」と言う方もいらっしゃって、春から夏へと少しずつ季節も移行しているんだな〜って思いました。


 オオイヌノフグリ・・・座った足元に咲いていました。一度描いてみたいお花の一つです。残念なことに、一日花なので、朝に咲いて夕暮れには花の命を終えてしまいます。
 カタバミ・・・生薬名は酢漿草サクショウソウ

 絞り汁は虫さされに効果があると言われています。「輝く心」なんて素敵な花言葉を持つ。噛むと酸っぱい。それはシュウ酸を含むから。

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 お花に頑張る力を貰って、さて次の古墳へと歩を進めましょう。

 公民館を出て、また166号線を渡り某会社の敷地を通らせて頂いてまた山登りです。獣道のような細い山道を登ってゆく。どんぐりの落ち葉が滑りやすくしているのをぐっと踏ん張りながら登ります。
 【ムネサカ1号墳】

 *径・・・45m
 *高さ・・・8m
 *二段築成の円墳。

 南面する横穴式石室がある。

 この石室の作成プランは岩屋山古墳(斎明天皇陵の候補)とほぼ同じだとされ、同じ工人が造った同一設計の古墳であるとされています。風人さんは「天皇陵と同じようなプランの石室が各地にあるって言うのもどうなんだろう。」と仰ってました。規格品の天皇陵って言うのもねぇ。(笑)
 <石室>

 *全長・・・16.6m
 *玄室長・・・4.6m
 *幅・・・2.7m
 *高さ・・・2.4m

 奥壁は巨石の二段積み、側壁は下段3個・上段2個の、ほぞ長方形の花崗岩かこうがんの切石を用いています。隙間には漆喰が塗られています。
 <蒼ケ>

 *長さ・・・12m
 *幅・・・1.9m
 *高さ・・・1.4m


 石材表面は精緻せいちに加工されていてとても綺麗です。七世紀中頃の築造と考えられています。被葬者は、近くに粟原寺が在ることなどから、この地に勢力を持った中臣氏ではないかと、風人さんのご意見でした。
 山道をまたまた登って行くと、突然らいちさんが立ち止まり、さらに上を指差され「風人さん、もう一つあるんですけど〜」と。岩が見える・・・から、もういいやんね、しんどいし〜って思ったら「折角なんで行きましょう」ミ(ノ;_ _)ノ バタッ
 中を懐中電灯で照らす人若干二名。(笑)中から数匹のコウモリが飛び出して来ました。

 「風人さん、それって虐めだよ!!」と、笑いネコさんが。睡眠を邪魔された事を、きっとあちこちのコウモリに知らせてるよ、きっと。とももさんが。(笑)
 アケビの花・・・雌雄異花です。

 *雄花・・・中央部に6本の雄しべがミカンの房状にある。

 *雌花・・・中央部にバナナの果実のような6〜9本の雌しべが放射状にある。



 したがって、上の2個は<雌花>で、下のコロコロ〜っとした白いのは蕾のたぶん雄花。


 このアケビのツルは木通もくつうと言う生薬で、利尿作用、抗炎症作用などがあります。

 丁度今頃の新芽15cmぐらいの所で切って、さっと茹でてから水に晒し、おひたしや炒め物にするとやや苦味のある野趣あふれる味わいがあります。
 段々畑をくねくねと登り、やや高い所は先に行った人が手を差し伸べて、順番に登って・・・最後は風人さんだから大丈夫だろうって、手を差し伸べなかったら「みんな冷たいな〜手を握らせてもらえんかったもんな〜」と。yosioさんは先に登って、次々来る女性の手を引っ張り上げてくれました。「な、yosioさんみたいにやらんとアカンねん。」(爆)
 【越塚古墳】(県史跡)
  こしづかこふん

 *径・・・約43.5m
 *高さ・・・約7m
 
 赤い布が見えますか?あれが目印です。今回、至る所であの布がありました。が、そこへ行くまでに目印が無いので迷子になりそう。(><)

 築造時期はわかっていませんが、石材が自然石に近く、天井部の高い玄室を持つことから六世紀末の赤坂天王山1号墳と七世紀前半の谷首古墳の中間に位置づけられます。
 <石室>
 全長15.4m。
 花崗岩の巨石で構築されています。
 石室の床面には礫が敷いてあります。

 <玄室>
 長さ5.2m。
 三段積みでやや内側に持ち送り。
 隙間には小石を詰めています。
 中央には凝灰岩の石棺の底石が二枚残っていて、組合式石棺を安置していたようです。
 ミヤマニガイチゴの花です。

 キイチゴなので、木なのですが、バラ科に属しているので棘があります。夏に熟した赤い実は食べられますが、芯の部分は苦味があるので苦い苺、ニガイチゴと名前がつきました。
 大きな葉を見つけました!!
 私の手のひらよりも大きい葉です。

 ウバユリの葉です。ユリの葉と言うと、細長いイメージがありますが、ウバユリの葉はハート型を縦長に引き伸ばしたような感じになります。これから茎がだんだん伸びるに従って葉は枯れ、やがて花が咲く頃には葉が無くなるので、葉(歯)がないお婆さんの様なユリと言う事で、姥百合と言う名前がつきました。冗談の様な本当の話。(笑)

 冬、地上部が枯れた頃の球根を掘り出して食べると美味しいけれど、他の時期に食べても不味いのでくれぐれも気をつけて下さいね。
 古墳から出て山道を下ってくると、眼下に桜井の街が見えてきます。「あ!あれ見て!!」と指差す方を見ると・・・大神神社おおみわじんじゃの大鳥居が♪三輪神社とも言われる神社で、ご神体は山です。
 少し大きくしてみましょう・・・。真ん中よりやや上に大きな鳥居が見えますか?周囲のマンションなどと比べてもデカイ!!
 坂道を下ってまた登って・・・今日は一体どれぐらい坂道を登ったり降りたりしたんだろう・・・ってくらい歩いてます。(苦笑)かなり足の裏が痛くなってきました。薄っぺらい靴底では山歩きは無理だってわかりました。運動靴じゃなく、山歩き用の靴が必要なんだわ。って、持ってない私。

 痛い足を庇いつつやってきましたこちらが【赤坂天王山古墳】あかさかてんのうざんこふんでございます。そそ、この緑のこんもりした部分です。で、またここを登って行きます・・・。
 飛鳥の若人?が、古墳の中に入って行かれました・・・。

 *東西・・・45.5m
 *南北・・・42.2m
 *高さ・・・約9m
 
 各辺が正方位を向いています。

 *南に閉口する両袖式の横穴式石室を持っている。
 <石室>
 *全長・・・17m
 花崗岩の自然石で造られていて、壁面持ち送りされています。

 <玄室>
 *長さ・・・8.5m
 *幅・・・約3m
 *高さ・・・4.2m
 中央に凝灰岩製の刳抜式家形石棺が残されており、棺蓋には6個の縄掛突起がある。

 <羨道>
 *長さ・・・8.5m
 *幅・・・1.8m
 *高さ・・・約2m
 日本書紀によると、祟峻天皇すしゅんてんのうは暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されているので、赤坂天王山古墳を祟峻天皇陵と考えるのが有力みたいですね。

その根拠は・・・
 1.蘇我氏との血縁が深い天皇の陵墓は、方墳である事が多い。

 2.他の天皇陵と比較しても遜色ない規模である。

近つ飛鳥ではなく、倉橋に葬られたのは、暗殺された歴史が反映されていて、また別の意味が秘められているのかも・・・と、想像をたくましくしながらこの場を後にしました。
 半鐘はんしょうでしょうか。「今でも鳴らすことがあるんでっか?」と誰かが聞いた。村人違うからわからんやんなぁ・・・と思ったら「今は鳴らさないでしょう」と、風人さんが即答。そりゃそうやわな、鳴らさない方が平和なんだから。(笑)
 【舒明天皇陵】(段ノ塚古墳)
  じょめいてんのうりょう

 ここには舒明天皇とその母である糠手姫皇女ぬかでひめのひめみこが合葬されていると考えられています。舒明天皇の父は押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこであり、押坂(忍坂)と関わりがある事がうかがえます。
押坂彦人大兄皇子は、蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、台頭してきた蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある人物です。
 地形に合わせた台形状の3段になった下段の上に、八角形の2段に築成された墳丘を乗せています。飛鳥時代後半から天皇陵の特徴となる八角墳の最初の例です。その後、斎明、天智、天武、持統、文武、各天皇へと墳形は引き継がれてゆく事になります。蘇我氏の血を強く受けた天皇の陵墓が方形墳だったことから、蘇我氏と一線を画する形態と言えそうです。
(原文)
  秋山之 樹下隠 逝水乃 
    吾許曽益目 御念従者

 あきやまの このしたがくり ゆくみづの    われこそまさめ みおもひよりは

           鏡王女 巻 2−29

 秋山の木の下を隠れて流れる水のように、表にこそ出しませんが、私こそ一層お慕いもうしあげております。あなたが私に寄せる思いよりは。

 この歌は、中大兄皇子が贈った歌の返歌です。

(原文)
 妹之家毛  継而見麻思乎 山跡有
     大嶋嶺尓 家母有猿尾

 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる
     大島の嶺に 家もあらましを
 
 あなたの家をもっと見ることができたら・・・。大島の山頂に私の家があったらよかったのに。本当はあなたともっと会いたいのですよ。

 【鏡王女墓】
  かがみのおおきみぼ

 鏡王女は、額田王の姉と言われていますが、本当かどうかわかっていません。鏡王女は、妹の額田王と中大兄皇子を巡って三角関係になったとされています。中大兄皇子と一度は結婚した鏡王女ですが、その後、藤原鎌足の正室になり晩年は幸せだったようです。額田王は結局、中大兄皇子とも結婚せず、姉と違って晩年は寂しい時を過ごしたのではないかといわれています。

 私は歌人として、どちらも大好きです。情熱的な妹、大人しい姉・・・それぞれに良い歌を残してくれています。

  私が好きな鏡王女の歌を一首。

(原文)
 風乎谷  戀者乏  風乎谷
    将来常思待者  何如将嘆

 風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに
  来(こ)むとし待たば 何か嘆(なげ)かむ

 風さえも恋しいと仰るあなた羨ましいわ。たとえ風であろうと待てるなら、こんなに嘆きはしないのに。私には風さえ来てはくれないのですもの。
 【大伴皇女墓】
  おおとものひめみこぼ

 欽明天皇の第9番目の子とされます。が・・・実のところ良くわからない人物なのだそうです。皇女だけに、お墓は立派!!ここから来た道をまた降りて、戻るような形でお寺に向かう。予約をしておけば、町の世話役さんがお寺の鍵をあけてくれるそうで、今回はお願いして秘仏を見せていただける事になっていました。時間に間に合うよう先を急ぎました。
 【石位寺】拝観料200円
  いしいでら
  
 この奥の収蔵庫に、重要文化財:石造浮彫伝薬師三尊像せきぞううきぼりでんやくしさんぞんぞうが安置されています。写真撮影はダメってことで、写真1枚300円で売られていました。(^^;
 おにぎりのような三角の硬砂岩こうさがんの表面に、肩幅の広い仏様(おい!)が半肉彫りされていています。「嫌に肩幅が広いけど・・・」って言うと、「下から見上げたら丁度良くなるんじゃないかな」と、ももさんが教えてくれたので、早速数段降りては覗き込むように見上げ、また数段降りては覗き込むように見上げ・・・して、ももさん大正解!!って事が判明しました。
 【忍坂坐生根神社】
  おっさかにいますいくねじんじゃ

「子連れ狼」ならぬ子連れ狛犬。(笑)

 神社って、狛犬の時もあれば、キツネの時もありますよね。巻物を咥えていたり、片手をあげてるだけのもあるし・・・。

 古代インドでは、仏像の両脇にライオンを配置していたそうな。日本では、角のない方の像を「獅子:しし」、角のある方の像を「狛犬:こまいぬ」と言い、一対で「獅子狛犬」と言います。親の肩に子供を乗せる肩車かたぐるまを「ししこま」と言う地方もあります。

 稲荷神社に狐、春日神社に鹿、弁財天には蛇などが代表的な物です。

 昭和以降に作られた角のない対の物は正式には「獅子」と言われます。
 背後の宮山がご神体で、三輪の神の御子神と言う由緒があるらしい。石段の上に掛かっている勧請縄かんじんなわが面白い。ぷーままさんは「お魚を模ってるんじゃない?」と、私と同じ意見をお持ちでした。杉の葉が編みこまれている。

 勧請縄って、村の入り口に張ってあって、災いや邪気が村に入り込まないように掛けられている物です。この神社には鳥居がありません。この勧請縄が鳥居の役目をしているのでしょうね。
 近鉄朝倉駅のすぐ手前にある公園の横を上がって行くと【忍坂古墳群】おっさかこふんぐんがあります。外鎌山とがまやまの北西に位置する場所で、四世紀末から七世紀後半までの9基の古墳が見つかり、現在は近鉄朝倉駅南の2号公園に移築されています。移築されたのは、1・2・8・9号です。

 【9号墳】

 *径・・・12m
 *円墳

 埋葬施設はT字形の平面プランを持つ磚槨式石室です。
 全体で見ると・・・ナンだかわからない。(笑)
 【8号墳】
 
 *径・・・12m
 *円墳
 
 埋蔵施設は半分しか残っていない。
 榛原石(室生火山岩)の板石を積んだ磚槨式石室で、特に珍しいのは、正六角形の平面プランを持つ古墳と言う点です。磚槨式石室の平面が六角形に復原できると言うことで、それはとても珍しいとされているようです。

 七世紀後半から八世紀初頭にかけて造られた古墳であろうと推定されます。
 【2号墳】

 *径・・・13m
 *円墳
 
 埋葬施設は、両袖式の横穴式石室。

 正面を大写ししてみました。これはカビでしょうか?
 【1号墳】

 *径・・・約7m
 *円墳
 
 埋葬施設は片袖式の横穴式石室。

 径の大きさで言うと、この1号墳が一番小さいのですが、一番大きく見えるのがナゾ。(笑)

 
 ここにもアオカビみたいなのがあるけれど・・・ペンキじゃないわよね?

 所々にワラビが芽吹いていましたが、細いし、何よりも移築したとは言え、お墓だからねぇ〜やっぱり採る気にはならないわ。(苦笑)

痛い足を動かしつつ、近鉄朝倉駅に到着。
これで今回の特別回は終わりとなります。

本日のガイドをして下さったのは・・・
桜井市観光ボランティアガイドさんでした。
資料も用意して下さり、本当にありがとうございました。
そして
風人さん、沢山の予習資料&当日資料をありがとうございましたvv


参加者は・・・
遠く千葉から初参加して下さった ノラさん
miyauchiさん、sachiさん、yukaさん、ぷーままさん、ようこさん、Iさん、yosioさん

事務局は・・・
風人さん、笑いネコさん、ももさん、若葉さん、P

でした。

みなさん、本当にお疲れ様でした。
足の疲れが速く回復なさいますよう、お祈り申し上げます。m(_ _)m ペコリ

【是P的反省激烈】

帽子は必須です!!
ペットボトル500mlを2本用意したけど、結局買い足した・・・。
靴は底の厚い目を選ぶこと。

しかし、今回は良く歩きました!!地図で見る距離としてはそんなでもないのですが
結局、3万歩は歩いているって、参加者の万歩計が示していました。
しかも、山道・・・なめてたらとんでもない事になるって思いました。(笑)

この後、yosioさんのお店<花林>に電話してもらって
宴会だけ参加の河内太古さんの分も含めてビールをすぐに飲めるように手配vv
その夜は風人さんのお誕生日会をチョコットやりまして
4月12日に仲間であるBunQさんが他界され
BunQさんの思い出話をしました。
BunQさんの穏やかな物腰と歩く姿がとても印象的でした。
心からご冥福をお祈りして、今回のレポを終わらせて頂きます。
長々読んで下さり、ありがとうございました。m(_ _)m ペコリ

〜P-saphire〜



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