小説 〜 いつも心に花束を 〜
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 鉛色の空、着陸態勢に入った飛行機の小さな窓から見える大阪の街は、微かに煙ったように瞳に映った。立ち並ぶビルを眺め、随分日本もこの20数年で変化をした物だと、まるで異国の地に降立つようななんとも言えない気持ちになっていた。想像していた懐かしさから来る切ないような感傷など、微塵も感じられないのが不思議だ。二度と母国へ再び帰れるとはあの時思いもせず、ボストンバッグに下着と安月給の中で貯めたいくばかりかのお札を入れて、彼に手を引かれるままにタラップをあがった。日本を離れる悲しみや異国での生活の不安よりも、彼の手の温もりだけを信じて飛び立った。捨てよう・・・親も兄弟も、ふるさとの優しかった人たちも。あまりにも変貌を遂げた我がふるさとの街を、空から眺めつつ、丁度あの日、異国の地を空から見た街並みがオーバーラップし、自分の意思とは関係なく心はすっかりあの日に戻ってしまったのである。

 「父さん、母さん・・・ただいま帰りました」

彼は、私の手を離し、一目散に小さな木の門を押し広げて、ずんずんと青や黄色の小花が咲く小道を進んで行った。私は、ボストンバッグを胸に抱え、小走りで彼の後をついて進んでゆく。目的地は、映画で見たような木造のテラスのある、まるで西部劇に出てくるような古く緑色の屋根の家。

 「何て挨拶すれば良い?」

私の声など聞こえないみたい・・・。彼は振り向きもせずに、家のドアをノックした。そこでようやく彼は私の顔を見て、ウィンクを一つした、と同時に白いカーテンの掛かったドアが開け放たれ、中から男性と女性が<信じられない!>と言うような表情で立っていた。

 「父さん・・・母さん・・・ただいま帰りました」

彼は直立で敬礼をしたかと思うと、男性と女性の強張った顔が崩れ、もう離さないと思うほどきつく彼を抱きしめた。私はひとり傍観者になってしまい、一言も言葉に出来ず立ち尽くしてしまった。彼らが何を話していたか、その時私は一切分からず、立ち尽くすしかすべが無かったと言うのが正直な気持ちだったのかも知れない。と、その時母親らしき女性が、私の方を見て、また怪訝な顔になっていた。斜めにした彼女の目は私を下から上へ、左から右へと舐め尽さんばかりに見ていた。彼もその視線に気が付いて、ようやく私の肩を抱きこう発したのである。

 「父さん、母さん、僕のお嫁さん。さくらと言う名前なんだ」

二人の顔はますます怪訝さを増し、辺りを見回しながら

 「兎に角中へ・・・誰かに見られたら大変だ!」

私は彼らに急かされるように背中を押されて、家の中へと飛び込んだ。家の中は、日本のふるさとの家とまるで違っていて、靴のまま部屋に通されて驚き、レースのカーテン、幾つも置かれた写真、紙を貼ったような壁、テーブルにイス・・・どれもこれも映画のワンシーンのような、なんとも落ちつかなさで胸が高鳴った。日本を飛び出した時にこうなる事は、ある程度予測は出来ていたものの、こんなにも生活が違うとは思ってもいなかった。私が部屋の隅々まで眺めている間に、三人は何やら口論をしているようだった。時々声を荒げ、手を振り足を鳴らして、一体何を話しているのか聞き取れないが、きっと異邦人の花嫁を連れて来て驚いているのだろうと、まだ軽い気持ちでいたが、父親らしき男性が急に私に近づき、何か言ったかと思うと同時に私の背中を押して、玄関のドアを開けて外を指差した。私は何が何か分からずに彼の顔を必死でみつめ<どうしたらいいの?>と、心の中で何度も何度も叫び、必死にドアの柱を手で押さえた。。ここでドアを出てしまったら、もう二度と彼に会えない気がして、不安でたまらなかった。

 「父さん、さくらを日本に返すなら、僕も日本で暮らす。彼女はとても素晴らしく素敵な女性だよ、お願いだ、彼女をここに置いてやって!僕の大切なお嫁さんなんだよ!」

彼は何度も何度も同じ言葉を繰り返して、彼の両親であろう二人に時には抱きつきながら、時には号泣しながら言ってくれた。

一体どれぐらいの時間、彼は哀願してくれていたのだろうか。何年もに感じたけれど、ものの数分だったのかも知れない・・・。
とうとう二人は彼の説得で、私をテーブルに着く事を許してくれた。

 「私は認めませんよ!薄汚いジャップが嫁だなんて!!」

母親らしき女性は、泣き叫びながら、まるで私を雑巾か雑草のように見つめた。そんな目で見られたのは初めてじゃないな・・・。


 パチーン!!頬を強烈な痛みが襲った。

 「さくら、お前はバカじゃないのか!何も好き好んでアメリカの男を選び、アメリカなんぞに行くだなんて!!敵国だぞ!!お前の伯父さんも近所の男たちも、あのアメリカに殺されたんだ。敵国に身を・・・」

父はそう言って言葉を失い、土間に畳まれるように崩れた。隣に立つ
彼には父の言葉は分からない。彼は私を抱きしめながら、オロオロするばかりだった。そう、その時の父の目も、今の彼の母親と同じ目をしていたっけ・・・。

 「母さん、さくらと言う名前は、お花の名前なんだよ。日本で一番愛される、とても綺麗な花の名前と同じでね。きっと母さんも愛してくれると思うよ。だから、母さん、彼女を頼むよ。」

彼はなだめるように、ゆっくりと彼女の手を両手で包みながら話してくれる。彼を選んで良かった・・・信じてついて来て良かった。たとえご両親が私を許してくれなくても、私はここで頑張ろうと心に誓った。

 「兎に角、夕食を一緒にしましょう。話はまたそれから・・・」

彼女はそう言って、頬を押さえながら部屋を出て行った。私も・・・席を立とうとした時に、隣に座っていた彼が私を抑えた。

 「君はまだこの家の人じゃない・・・」

その場の雰囲気は、その一言に集約されていたと思う。私はまた席に着いた。まるで飼い犬のように、ただ黙って大人しく。

彼は父親と、話しては黙り、黙っては話しの繰り返し。私は傍観者。言葉の厚い壁。彼らの目の動き、仕草、手振りでその場の雰囲気を察知するしか術がなく、ただ目だけがまるで羽子板の羽のように、彼と父親の間を行ったり来たりするだけだった。ついに私は力尽き、もう二人の間を漂わずに俯いたまま、石になっていた。と、突然ドンと言う音でハッとした。私の目の前に置かれたお皿。スープが少し零れて、テーブルクロスのその場所だけが滲んでいた。<招かざる客>まさしくそんな置かれ方だった。

テーブルには、次々と見知らぬ物が並べられ、父親が手を合わせて祈るのと同時に、母親、彼もそれに同調する。そして私も・・・。勿論仏教徒の私は祈りの言葉さえ知らず、ただただ耳に聞こえた<音>だけを頼りに小さな声で祈りを捧げた。

食事のマナーなど知らない。みんながするように食べる道具を手にするが、そのぎこちなさがまた母親の反感を買う羽目になってしまった。

 「ほらごらん、食事のマナーさえも知らない下品な女だよ!」

きっとそう言われたんだと思う。言葉の中の単語さえ分からない私だったが、彼女の目と言葉のトーンで、それが蔑みの言葉だと言う事は分かった。その場から消えてしまいたいくらい恥ずかしく、情けないけれど、どうすれば良いか全く分からない。どうすれば良い、どうすれば・・・。いくら考えても、頭の中には何も浮かばない。

<そうだ、私はまだこの家の人間じゃないんだ。ってことは、私はまだ日本人よね!日本式で食事を頂きましょう。日本人らしく、そう・・・私らしくね!>

そう思った途端、硬くなっていた私の心がふわりと浮き上がった。さっきまで、一体何を食べていたのか全く感じられなかった料理が、急に口の中で音楽を奏で出したのである。

 「お母さん、とても美味しいですよ、この味噌汁!」

気がつけば日本語で叫んでいた。そのかぼちゃで作られた味噌汁の美味しい事と言ったら、まるでお抹茶にお饅頭を放り込んで混ぜたような甘くてトロリとしていて、今まで食べたどんな味噌汁とも違っていた。

 「さくら、それは味噌汁じゃなく、スープと言うんだよ」
 「あら、私はまだアメリカ人じゃないんですもの、味噌汁よ。」

 「あら、このお饅頭は甘くないのね・・・なんだか塩っぱいわ」

丸くキツネ色に焼かれた物をそのまま齧り付いた私を見て、父親が目を丸くして、しばらく呆然と私を見たと思ったら、突然大声で笑い出した。今度はこちらがキョトンとしてしまった。

 「おい、お前が連れてきた女は、パンを知らないのか?大きな口を開けて食べたぞ。アハハ」

 父親はそれから私に、あれもこれもと、食べ物を勧めては笑った。私は笑われても構わないと思った。知らない物は知らないのだからと、半ば開き直りだったが、これが良かったのか、素直に勧められる食事を楽しく嬉しく、また美味しく頂き、言葉の代わりに顔いっぱいに表情であらわして・・・。父親とは正反対の表情でいた母親を無視するように、私は自分自身をアピールした。そう、日本人として。

 「ラネ、お前の女は面白い奴だ。いつまで辛抱出来るか分からないが、遠いアメリカまで連れて来たのだから、お前がしっかり守ってやりなさい。それがあの女の親への礼儀だぞ。分かったか?」

 「父さん! じゃぁ、良いんだね、さくらをお嫁さんにしても」

 「嫁にするのは俺じゃない、ラネ、お前だ。娘として思えるかどうかは、これからの事。頭と心はまだ別なんだ。お前の誠意が周囲の人をきっと動かせるだろう。ただし、時間は相当掛かると思えよ。」

 「父さん・・・」

 これは彼が後から話してくれた事で、その時点ではまだ私は分からなかった、この言葉も、その言葉の持つ意味も・・・。ただ一つ分かった事は、日本へ送り返されないって事だけだった。でも、それで充分だったように思う。

 そうして私(さくら)は、彼(ラネ)の生まれたアメリカの地で、新しい人生を歩む事になった。彼の手の温もりだけを頼りに。。。

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