〜Pの飛鳥食物記・ 米は蒸す?煮る?炊く? 〜

 私が両槻会のメルマガに、食物の話を書くようになり、当初、植物から導かれる食物の話をあれこれ調べ、自分で経験して記事にしていました。それらを調べてゆくに従って、食べていた当時の食器や道具、果ては米の食べ方にまで気持ちが広がり、最近は木簡を見るために博物館に通ったりして、「歴史は大嫌いだ!」と、公言していた自分が一番驚いているところです。(笑)

 出土した箸やスプーンに興味を抱くようになり、あれこれ調べていると、米にぶち当たってしまいました。米をどのように調理したかによって、それを食べる時の道具に変化が出て来るんじゃないかと思ったからです。風人さんから貴重な本や資料を頂き、また、自分でも食を扱った考古学の本、民俗資料などをひっくり返して眺めましたが、悲しいかな、みなさんそれぞれのご意見を主張なさっていて、本当の事が良くわかりませんでした。「米は蒸して食べたのが最初だ」と言う学者さんがいれば、「いや、米は粥で食べていたんだ」と言う学者さんもおられて、なんだか自分自身も釈然としない毎日でした。

 先日、平城京跡博物館で、羹所の甕(あつものどころのかめ)と言う物を見てきました。藤原京跡で見つかった綺麗な保存状態の甕を見ましたが、底が丸いんです。そのままでは決して置けない状態で、不思議だな〜と思っていたのですが、どうやらこの羹所(今で言うカマド)の上に乗せて使ったのでしょうね。これなら上手くカマドの穴にスッポリとはまる。しかも、下からの火が良く当たるように底が丸くなっていた・・・とすると、説明が上手く付きます。

 米が渡来した当時、日本では手で食物を食べていたとされています。遣隋使を中国の隋に派遣し、だんだんと人が行き来するようになると、「手で食物を食べている日本人は野蛮だ」と思われるであろうと、聖徳太子が高官たちに箸を使って食べるように言ったとしても、変じゃないし、きっとそれが本当なんじゃないかと私も思うのです。当時はまだ箸を上手く使えずに、きっと突き刺したりしてたでしょうね。と、すると、粥のようなトロミのある汁に近い物では食べられない。ましてや、手で食べていたとなると、粥ではありえない。では、蒸し米はどうか。蒸すと言う行為、主婦の感覚で言うと、結構面倒なものです。水を煮えくり返るくらいに沸かして、その上で蒸すわけですよね。時間も掛かるし、わざわざそんな手間な事をするかな?って思ったんです。今でも、蒸し器でお赤飯を炊いたりしますが、面倒なのでだんだん家で作る人が減っていますよね。私はお盆の3日間、三度三度1合の米を小さな鍋で炊きますが、結婚したてはこれが非常に難しく思いました。「初めチョロチョロ、なかパッパ、ジュウジュウ噴いたら火を引いて、赤子泣いてもフタ取るな!」と、古くからの歌で覚えました。それでも、時々芯が残っていたりしました。ご先祖様もさぞや迷惑だった事でしょう。と、思い出したら考えあぐねて振り出しに戻ってしまいました。

 すると、先日、ひょんなところで海外のお米を炊く話を知人がしてくれて、「これだ!!」って、なんか光明を見た思いがしました。それは・・・「海外の米は細長くてパサパサしているので、多めの水で煮て柔らかくなったのを確認したら水を捨て、もう一度火に戻して水気を飛ばす」と言うのです。これなら簡単じゃないですか。水分量も考えなくて良いし、ただ多めの水で煮て、余った水を捨て、水気を飛ばす。これなら、誰でもすぐに作れる!!<食の考古学:東京大学出版会発行>を読んでいると、米も、現代の一般的に出回っている丸いジャポニカ種ではなく、もしかするとインディア種のような細い米であった可能性があると、遺伝子や酵素の研究から指摘されています。とすると、今の米よりもっとパラパラしていた可能性があるわけで、益々煮ると言う話が現実味を帯び出しました。また平城宮跡の下層の弥生時代遺跡から発掘された土器には、焦げ付いたご飯がこびり付いて出て来ています。著者である佐原氏も、甕で直接米を煮ていただろうと書いておられます。ぐるりと回ってたどり着いた所に、思わぬ助け舟もあって、益々歴史から目が離せなくなりそうです。